日本国内で地上戦が行われた場所と言えば、まず沖縄が思い浮かびます。
というより、沖縄以外には思い浮かばないかも知れません。
ところがほかにも国内で激しい地上戦が行われた場所があったという事実、みなさんはご存知でしょうか?
それは北方領土。主に樺太南部で、ソビエト連邦とのたいへん苦しい地上戦がありました。
今回はこの「樺太地上戦」について書いてみます。
- 樺太地上戦がどのようなものだったのか?
- 樺太地上戦から私たちは何を学ぶのか?
このあたりを中心に書いてみたいと思います。
調べてみると、私たちが普段見慣れている日本地図の形が、当たり前のものではなかったのだなと感じます。
興味のある方にご覧いただけたらと思います。
樺太地上戦(樺太の戦い)とは
まず樺太の地上戦がどのようなものだったのか、大まかなところをおさえてみます。
樺太地上戦(樺太の戦い)とは、
- 太平洋戦争末期の1945年(昭和20年)8月11日から8月25日の間、
- 樺太(からふと)とは、北海道の北方の樺太島南部で
- 日本とソビエト連邦との間で交わされた戦闘
です。
終戦間際にソ連軍が参戦
ポツダム宣言を受諾して太平洋戦争が停戦に至るのは、この年の8月15日。
しかしこれに先立つ8月9日に、ソ連が参戦してきます。
日ソ中立条約が未だ有効ななかでの宣戦布告でした。
ソ連軍は樺太にも侵攻
ソ連軍はまず大陸の満州方面に進出、次いで樺太・千島方面へも軍を進めます。
背景には、米英ソが戦後の利害を調整したヤルタの密約があります。その中で南樺太をソ連のものにすることが盛り込まれていた。
ですがソビエト連邦のスターリンは、この南樺太の奪還のその先、つまり北海道北部(留萌・釧路以北)の軍事占領も見据えていました。
南樺太の占領は当たり前で、占領後はすぐに次のステージ、つまり北海道侵攻の拠点に使用される予定だったのです。
8月9日に対日宣戦布告をしたソ連は、翌10日、第16軍に樺太侵攻命令を下します。
ソ連軍の作戦は
- 第1期:第1梯団(第79狙撃師団・第214戦車旅団基幹)による国境警戒線突破
- 第2期:古屯を攻略
- 第3期:第2梯団(第2狙撃旅団基幹)が一気に侵攻して南樺太の占領を完了
さらに、塔路と真岡という町に向けては、補助的な上陸作戦が計画されていました。
日本軍の抵抗
これに対して、南樺太を守備する日本側は、北地区の歩兵第125連隊と南地区の第88師団。
ひとたび事が起きた際には、それぞれ持久戦をするよう命じられていました。
一般住民による義勇兵
ソ連参戦の報を受けたこの第88師団は、8月9日に地区特設警備隊を動員。次いで13日に、国民義勇戦闘隊を招集します。
一般住民による義勇隊が組織されたのはこの樺太戦が唯一の例。人を集めて兵力があるように見せかけ、ソ連軍の進撃を遅らせるのが目的でした。
装備には木銃や銃剣も
詳しいことはわかりませんが、この義勇兵の例からも、日本軍とソ連軍にはかなりの戦力差があったような気がします。
ソ連軍が戦車部隊を含む二波+補助部隊で侵攻してくるのに対して、日本側は民間人からなる義勇兵に助けを求める状態。国境警察隊や輜重兵(しちょうへい)もかり出されたといいます。警察隊は兵士ではありませんし、輜重兵というのは兵站を担当する輸送部隊。後方支援が専門です。武装はなんと訓練用の木銃と銃剣だったとか。木銃というのは文字通り銃のかたちをした木、いわば木刀のようなものです。当時はこの先に銃剣を装備した銃剣道という格闘戦術がありました。ともかく弾は出ない。白兵戦用の武器です。
停戦を念頭にした戦闘
さらに8月15日にはポツダム宣言が受諾され、日本の部隊は停戦準備に移ろうとします。ところがソ連軍の侵攻作戦は8月16日以後も止みませんでした。ソ連軍は、8月25日までの樺太・千島占領、そして9月1日までの北海道北部の占領が命じられていたのです。
そのため日本軍はやむなく戦闘を続行。自衛と南樺太を死守するための戦いでした。
ここで日本軍は、ソ連軍をよく食い止めたと伝えられています。
しかも停戦することも念頭にある日本軍は各所で交渉を試みます。ところがこれらはことごとくソ連軍側から拒否され、時には交渉役に送った人物が処刑されたこともあったそうです。
攻め寄せて、あわよくば北海道に侵攻しようというソ連軍。これに対して貧しい火力で進撃を食い止めつつ、住民を守り、避難させ、さらに停戦交渉に持ち込もうとする日本軍の苦慮は相当なものだったのではないでしょうか。戦術的には進撃を阻むために橋を落としたいところですが、ソ連軍に追われた一般住民を避難させるためそれもできない状況だったとか。
真岡の悲劇
このような厳しい状況の中、ソ連軍の第三期攻撃の補助部隊が真岡という町に侵攻。
当時、真岡の港は本土に避難するための地元住民など1万5000人以上がいたそうですが、軍服に似た国民服を着ていた民間人が処刑されたり、電信局の女性職員が集団で自決する(真岡郵便電信局事件)など、たいへん悲惨な事態に至っています。
当時の南樺太には季節労働者を含めて40万人以上がいたと考えられています。
ソ連参戦後は彼らの北海道への避難が始まりますが、女性や子どもなどを載せた引き揚げ船が、ソ連のものと思われる潜水艦に撃沈される悲劇(三船殉難事件)も起きています。
なぜ樺太地上戦は注目されていないのか?
私たちの多くは、8月15日の玉音放送で戦争が終わったと認識しています。
しかし北の地ではまだまだ戦闘が続いており、民間住民をまきこんで悲惨な光景が繰り広げられていた。
「停戦」と言っても、必ずしも現場はその通りに運ぶばかりではなかった、ということです。
なぜこのことがあまり注目されていないのか?
私が勉強不足だっただけ、と言われればその通りですが、内地の地上戦と言えば沖縄ばかりがとりあげられているのは、やや不思議な気もします。
内地とは外地に対する言い方で、大日本帝国憲法下で決められていました。
満州や台湾、朝鮮などはその地に置かれた総督府などがおさめていて、外地と呼ばれています。
これに対して樺太は日本政府が直轄していた地域=内地に含まれていました。
樺太の戦いが北海道を守った?
日本が降伏文書に調印したのは9月2日。
ソ連軍としては正式な文書が調印される前に北海道を実効支配し、少しでも多くの領土を切り取ろうと企図していたように思われます。
しかし、結果的にはソ連軍は樺太で足止めされ、北海道は現在も日本国に帰属しています。
それはこの樺太地上戦での苦しい戦いがあればこそ、と言うこともできるでしょう。
その意味でも樺太の戦いはしっかりと記憶され、もっと注目されてもいいことだと私は思います。
樺太地上戦がとりあげられる番組
折よくこの「樺太地上戦」がテレビ番組にとりあげられるそうです。
番組名はNHKスペシャル『樺太地上戦 終戦後7日間の悲劇』。
放送日と時間は2017年8月14日(月)20時00分~20時43分。
NHK総合での放送です。
おわりに
以上、樺太地上戦についてでした。
起きた出来事、生じてしまった犠牲からするとはなはだ大まかすぎるとは思うのですが、興味をお持ちのみなさんがさらに深く調べるためのきっかけにしてもらえたら嬉しいです。
- ひとたび戦争になればやはり力と力の争いになる。
- いかに停戦がなされていようと、その背後のどさくさ次第で国境線が揺らぐ。
- その過程で、一般住民が巻き込まれて、犠牲になる。
こうしたことを、樺太地上戦は教えてくれているように思います。
もとより私は歴史の専門家ではありませんので、一般の庶民ブロガーが調べた考えをシェアしたものとご理解ください。
最後までご覧くださり、ありがとうございました。
コメント
どうなんでしょう。樺太での第88師団と住民の抵抗が、北海道を守るほどの足止めをしたでしょうか。16日から22日までのわずか7日間ですから。
それにソ連の日ソ中立条約の一方的破棄により、ソ連憎し、北海道を占領したいスターリンの思惑はその通りだと思いますが、実際に戦闘が起きたのは、「戦争が終わって、進駐してきた戦勝国」に対して、先に攻撃を仕掛けたのは武装解除をしなかった第88師団です。
そういう事実を踏まえると、記事の論調が少し変わってくるのではないかと感じます。
訂正:戦勝国⇒進駐軍