昨年夏に公開された天皇陛下の「お気持ち」表明ビデオ、印象的でしたね。
政治的に微妙な言い回しをしたりせず、触れられないことは触れられない、と直裁におっしゃりつつ、まさに今の「お気持ち」を我々に語りかける、なかなかグっとくる声明だったと、当時の私は感じました。
その中でちょっと気になったのが「重い殯(もがり)」というキーワード。
少し調べて記事を書いたのですが、以前のブログを閉鎖してしまったので、ここに加筆・転載します。
天皇陛下が懸念する、殯(もがり)
陛下がおっしゃるには、天皇が崩御した後に長い期間、この「殯(もがり)」という行事が行われ、それが天皇の家族に「非常に厳しい」状況をもたらす、と言うのです。
どういうことなのでしょうね?
天皇が健康を損ない、深刻な状態に立ち至った場合、これまでにも見られたように、社会が停滞し、国民の暮らしにも様々な影響が及ぶことが懸念されます。更にこれまでの皇室のしきたりとして、天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません。こうした事態を避けることは出来ないものだろうかとの思いが、胸に去来することもあります。
殯(もがり)の驚きのしきたり
この殯(もがり)、wikipediaで調べるとすぐにでてきます。
ネットってすごい。でも読むと驚きます。
殯(もがり)とは、日本の古代に行われていた葬儀儀礼で、死者を本葬するまでのかなり長い期間、棺に遺体を仮安置し、別れを惜しみ、死者の霊魂を畏れ、かつ慰め、死者の復活を願いつつも遺体の腐敗・白骨化などの物理的変化を確認することにより、死者の最終的な「死」を確認すること。
読むとわかりますが、亡くなった後、遺体をかなり長い間、置いておく。
安置と言えば言葉はよいですが、これを読む限り遺体が腐敗して白骨化するまで、埋葬せずに置いておく、というわけです。
・・・なんでまた??
要は、死を悼み、別れを惜しみ、復活を祈念する期間。
で、遺体がもうどうしようもない状態になってはじめて、本埋葬をする。
この間の期間をどうやら殯(もがり)というらしい。
これは確かに厳しいし、残された遺族にとっては、現代の感覚で言えば酷いことこの上無し、という感じがしますよね。
また、殯に長い期間をかけるの理由としては、上とは別の説明の仕方もあるようです。
昔は亡くなった人が怨霊になることをたいへん恐れていた。
それで、そうならないように霊魂を慰めつつ、復活しないことを完全に確認する、という意味合いもあったらしい・・・。
同じ長い期間をかけていても、一方では復活を願い、もう一方では復活しないことを確認する、という具合に正反対。
実際には死を恐れる心の裏表という感じで、双方の意味合いが複雑に絡んでいたのかも知れません。
現在は簡素化されている
とまあ、殯(もがり)の実際の様子を想像して軽く戦慄していたわけですが、さすがにこれはかなり古いしきたりで、大化の改新以後は簡素化や火葬もされている、とのこと。
殯の儀式は大化の改新以降に出された薄葬令によって、葬儀の簡素化や墳墓の小型化が進められた結果、仏教とともに日本に伝わったと言われる火葬の普及もあり、急速に衰退する。
少し安心しました。
とは言え、具体的にどのようなながれになっているのかわかりません。
全体の流れからすると、残されるご家族が「非常に厳しい状況」に置かれるという点には、我々が知らないことがいろいろありそうな気がしてきます。
本当のところはわかりませんが、、、
「もがり」は、古代では広く行われていた
blog書いていると、自分てほんとうに無知だなと思うのですが、この「もがり」という儀式は、特に天皇家に限ったものではなく、古代では広く行われていたようです。
古代における死霊供養の儀式。わが国の葬祭のもっとも原初の様式といわれる。古代には、死者があると、葬送を行なう前に、遺体を仮小屋、あるいはそれに類した、風光を遮る場所に隔離し、死者とある期問生活をともにするならわしがあった。葬制史の上では、風葬から埋葬へ移行する時点に発生したと推定されている。
こちらの引用元の記事には、伊豆諸島では明治の初期まで喪屋生活の遺風があったと記載されています。
この記事は以前はてなブログで私が公開していたものを加筆・調整して転載したものです。
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